戦略を語るとき、私たちはよく一つの問いに引きずられる
「どうすれば勝てるのか?」
その結果、私たちが思い浮かべるのは、
より大きな投入、より速いテンポ、より巧妙な戦術であることが多い。
もう少し力を使えば、
もう少し耐えれば、
それだけで勝利にたどり着けるかのように。
しかし『孫子兵法・兵勢篇』は、
私たちにもっと冷酷で、そして成熟した事実を突きつける。
勝敗を本当に分けるのは、
どれだけ力を使ったかではなく、
あなたが「勝てる方向」に立っているかどうかなのだ。
孫子がこの篇で語っているのは
「どうやって踏ん張るか」ではなく、
**「どうすれば物事が自然に、自分に有利な方向へ進むのか」**である。
彼はこの概念を、
——「勢(し)」と呼んだ。
「勢」とは何か?
「勢」とは、
その場の爆発的な腕力ではない。
感情が高ぶった末の一発勝負でもない。
それは、あなたが動く前に、
すでに整え終わっている配置そのものだ。
- 構造は自分の側にあるか
- リズムは自分が握っているか
- 条件は自分に有利か
- 相手は自分が設計した地形へ導かれているか
これらがすべて整ったとき、
勝利はもはや「押し出す」必要がなくなる。
それはまるで、高山から転がり落ちる丸石のようだ——
力で押したからではなく、
すでに「転がる位置」に置かれているからである。
『軍形』から『兵勢』へ 「不敗」から「勝てる状態」へ
前篇〈軍形第四〉を振り返ると、
そこでは一貫して、ある一点が強調されていることに気づく。
真の高手とは、
毎回勝つ者ではなく、
決して負けない者である。
軍形篇が扱うのは「静的な安全」だ。
いかにして自分を不敗の地に置き、
崩されず、引きずり倒されないか。
そして兵勢篇は、その次の段階に進む。
それはこう問う。
すでに負けなくなったとき、
次にどうやって優位を「動かし始める」のか?
言い換えれば——
〈軍形篇〉は「立つこと」を教え、
〈兵勢篇〉は「前に進むこと」を教える。
この転換点こそが、
職場、起業、投資、交渉において、
多くの人が最もつまずきやすい場所なのである。
『孫子兵法・兵勢第五』原文(日本語訳)
孫子曰く:
「凡そ衆を治むること寡を治むるが如きは、分数なり。
衆と闘うこと寡と闘うが如きは、形名なり。
三軍の衆、必ず敵に当たらしめて敗れざるは、奇正なり。
兵の加わるところ、碬を以て卵に投ずるが如きは、虚実なり。」凡そ戦う者は、正を以て合し、奇を以て勝つ。
故に善く奇を出だす者は、
天地のごとく窮まりなく、
江河のごとく尽きず、
終わってまた始まり、日月のごとく、
死してまた生く、四時のごとし。声は五を過ぎず、
五声の変、聴くべからず尽くすことなし。
色は五を過ぎず、
五色の変、観るべからず尽くすことなし。
味は五を過ぎず、
五味の変、嘗むべからず尽くすことなし。戦勢は奇正を過ぎず、
奇正の変、窮むべからず。
奇正相生じ、
循環して端なきが如し。
誰か能くこれを窮めんや!激水の疾くして、
石を漂わすに至るは、勢なり。
鷙鳥の撃ちて、
毀折に至るは、節なり。故に善戦者は、
その勢険しく、
その節短し。
勢は張弩の如く、
節は機発の如し。紛紛紜紜として、闘乱すれども乱れず。
渾渾沌沌として、形円なれども敗れず。乱は治より生じ、
怯は勇より生じ、
弱は強より生ず。治乱は数なり。
勇怯は勢なり。
強弱は形なり。故に善く敵を動かす者は、
これを形づくれば、敵は必ずこれに従い、
これを与えれば、敵は必ずこれを取る。
利を以てこれを動かし、
実を以てこれを待つ。故に善戦者は、
勢にこれを求めて、人に責めず。
故によく人を択びて勢に任す。勢に任ずる者の戦いは、
木石を転ずるが如し。
木石の性、
安んずれば静かに、
危うければ動き、
方なれば止まり、
円なれば行く。故に善く人の勢を戦わしむる者は、
千仞の山において
円石を転ずるが如し。
これ、勢なり。
兵勢篇の核心的主張
もし一文で〈兵勢〉全体を要約するなら、それはこうだ。
人が無理に支えるのではなく、
勢が人を押して動かす。
即興ではなく、事前設計である。
分解すると、核心は次の四点に集約される。
- 正をもって合し、奇をもって勝つ
- 虚実相因し、実を避けて虚を撃つ
- 勢と節は必ず連動させる
- 勝敗を個人に賭けず、制度と地形に書き込む
以下、段落ごとに分解していく。
一、正と奇 まず「正」で陣を合わせ、「奇」で勝つ
原文要旨
「凡戦者、以正合、以奇勝。戦勢不過奇正、奇正之変、不可勝窮也。」
正と奇は対立ではなく、順序である。
多くの人は「奇」を、
投機や博打、一発逆転の奇策だと誤解する。
しかし孫子の文脈では、
奇は常に正の上に築かれる。
正とは、
標準化され、予測可能で、再現可能で、持続可能な基盤。
- プロセス
- SOP
- 安定したデリバリー
- 信頼感
奇とは、
非予測的で、非対称で、
相手の思考モデルを破壊するもの。
- 戦略的奇襲
- 設計上の工夫
- 物語(ナラティブ)の転換
本当に高明な戦略とは、
常に奇を出し続けることではない。
相手が「あなたは型通りにしか動かない」と思った瞬間、
すでに局面を書き換える準備が整っていることだ。
職場與商業世界に当てはめると
プロダクト
正:
安定していて信頼でき、体験が一貫していること。
奇:
「これでなければならない」と思わせる、
本当に意味のある差異点を一つか二つ持つこと。
マーケティング
正:
安定運用されている基本チャネル。
奇:
話題の爆発、テーマへの接続、イベント型マーケティング。
組織
正:
リズム、制度、指標。
奇:
重要な局面での部門横断の突撃と、
ナラティブ(語り)の逆転。
行動チェックリスト|奇正の二軸運用
- 毎四半期、「正」の基盤を先に満たす
(信頼性、納品率、指標達成) - 「奇」のために 10〜20% の柔軟リソースを確保する
(高レバレッジな機会点の実験用) - 「奇点デー」を設計し、
リリース/節目/会議などの重要タイミングに火力を集中させる - 有効だった「奇」を、次のサイクルの「正」として固定化する
一文まとめ
まず「正」で地形に立ち、
その上で「奇」によって地形を書き換える。
二、虚と実 劣勢で、相手の優勢を検証してはならない
原文要旨
「兵之所加、如以碬投卵者、虚実是也。」
孫子はここで、
極めて残酷だが、極めて正確な比喩を用いている。
——石を卵に投げる。
それは石が特別に強いからではない。
打つ「場所」を正しく選んでいるからである。
虚と実の本質
実:
相手の強み、主力、得意分野、
重兵が配置されている場所。
虚:
相手の弱点、見落とし、放置、
手が回っていない空白。
戦略の要点は、
自分がどれほど強いかを証明することではない。
自分の力を、
相手が最も脆い場所に当てることである。
実務ツール
- 虚実マップ:
自分と競合の「強/弱/未防衛/過剰防衛」の四象限を可視化する - 逆向き偵察:
相手の資源投入が不足している箇所を観察する
(長期間更新されない機能、弱いカスタマーサポート、コンプライアンスの隙) - レッド/ブルー対抗:
Red Team(攻)/Blue Team(守)の演習を行い、貫通可能面を探す
個人とチームの行動指針
プロダクト:
競合が避けている痛点
(ニッチだが痛みが深く、価値が高い)から先に解決し、
非対称的な独占を築く。
セールス:
最も固く守られている購買ゲートを避け、
周辺利用シーンから切り込み、徐々に内側へ浸透する。
キャリア:
競争が最も激しいレーンを避け、
ニッチな文脈で戦果を
「成果物+データ」として積み上げる。
一文まとめ
自分の石を、相手の卵に当てよ。
三、勢と節 勢は弩を張るが如く、節は機を引くが如し
原文要旨
「激水之疾…勢也;鷙鳥之撃…節也。善戦者、其勢険、其節短。」
勢:
長期的に蓄積された位置エネルギー
(ブランド、評判、データ、ネットワーク、キャッシュフロー、特許/コンテンツ資産)
節:
出手のタイミングと拍
(ウィンドウ選択、時間圧縮、一気呵成の決断)
本当の高手は、
手数が少なく見える。
しかし一度の出手は、
圧縮されたエネルギーの解放のように見える。
長期の蓄勢+短く鋭い決断。
それは、散発的で頻繁だが力のない行動とは正反対である。
勢を蓄える五つの要素
- ナラティブの蓄勢:
説得力と推進力を持つロードマップ(Why→What→When) - 証拠の蓄勢:
引用可能な顧客の声、指標ダッシュボード、事例データベース - 資源の蓄勢:
重要パートナーのリスト(法務・流通・大口顧客の種) - データの蓄勢:
プロダクト力や精密投下に転化可能なデータセット - キャッシュの蓄勢:
ランウェイと機会基金(ウィンドウ期の拡大用)
節の三原則
- 短く:
発力期間は短いほどよい
(例:2週間スプリントで部門横断起動) - 正確に:
ウィンドウを選ぶ
(業界会議、政策節目、需要急増期) - 徹底的に:
一度で到達させる
(資源・ナラティブ・チャネルを同時投入)
一文まとめ
勢は厚く、節は短く、
合力は一撃で貫通させよ。
四、形名と分数 規模が大きくなるほど、感覚管理は通用しない
原文要旨
「凡治衆如治寡、分数是也;闘衆如闘寡、形名是也。」
物事が大きく、複雑になるほど、
「もう少し見ておこう」「もう一度声をかけよう」という発想は、
すでに敗相である。
孫子がここで語っているのは、
感情の代わりに構造を、
掛け声の代わりに制度を使えということだ。
マネジメント備忘録
- タスク分解テンプレート
(入力、出力、基準、検収) - 命名ルール
(要件、バージョン、データ表、ダッシュボードの統一) - RACI 権責マトリクス
「全員責任=誰も責任を取らない」を防ぐ
一文まとめ
明確な「分」と「名」で、
大軍を小隊のように動かせ。
五、乱中不乱 混乱と渾沌の中で、敗れない核を保つ
原文要旨
「紛紛紜紜、闘乱而不可乱也;渾渾沌沌、形円而不可敗也。
乱生於治、怯生於勇、弱生於強。」
真の高手とは、
場面を整然と見せる者ではない。
混乱の中でも、制御を失わない者である。
表面の混乱の中で、
中核のリズムと閉ループを守り続ける。
孫子はここで、
直感に反する警告を与えている。
- 治まりきると乱が生まれる
- 勇が極まると怯が生まれる
- 強が極まると弱が生まれる
実務的対応
- インシデント対応手冊:
通報 → 割当 → 止血 → 回復 → 振り返り - OODA ループ:
観察 → 判断 → 決定 → 行動
意思決定サイクルを短縮する - レッドチーム演習
- ローテーションとクロスカバー:
単一英雄リスクを避ける(強極生弱)
一文まとめ
乱の表層でなく、
不敗の内核を守れ。
六、利を以て動かし、実を以て待つ
原文要旨
「故善動敵者、形之、敵必從之;予之、敵必取之;
以利動之、以實待之。」
要点翻訳
形之:
情報、ナラティブ、配置によって、
相手の認知と判断経路を形づくる。
予之:
得られそうに見える利益を差し出し、
相手をこちらが設計した地形へ誘い込む。
以実待之:
自分は供給、法遵、キャッシュ、バックアップを十分に整え、
相手が入ってきたところで包囲する。
相手の行動を誘発せよ。
ただし、自分は必ず「厚実な位置」に立っていなければならない。
交渉、価格設定、競争において、
最も恐れるべきは相手の賢さではない。
準備が整っていないまま、
相手を土俵に上げてしまうことである。
一文まとめ
利益で相手を牽引し、
準備で変局を受け止めよ。
七、勢に任せ、人に責めず 勝敗を制度に書き込め
原文要旨
「故善戦者、求之於勢、不責於人;
……任勢者、其戦人也、如転木石……
円則行……如転円石於千仞之山者、勢也。」
要点翻訳
勝ち負けを個人の英雄主義に結びつけるのではなく、
正しい行動が制度・インセンティブ・デフォルト選択肢に
組み込まれている状態をつくる。
任勢:
システムが自動的に人を正しい方向へ押し出すこと。
——丸石が山を下るように、自然に加速する。
真に高明な戦略は、英雄に賭けない。
正しい行動が、最も省力な選択肢になるよう設計する。
制度、報酬、リズムが整列すれば、
人はただ勢に押されて進むだけになる。
任勢チェックリスト
- デフォルト設計:
望ましい行動を既定値に設定する
(セキュリティ設定、リテンション機構) - 報酬の整合:
OKR/KPI を長期価値と一致させ、
近視眼的 KPI による誤誘導を防ぐ - 複利資産:
データ、コンテンツ、コミュニティ、プロセス化成果物 - 制約設計:
無駄な消耗を防ぐ境界
(WIP 制限、変更凍結ウィンドウ) - リズムの固定化:
定例レビュー、リリース、調整儀式による力場形成
一文まとめ
勝敗を、
場当たりの偶然ではなく、
構造的必然に変えよ。
結語|不敗から、順勢而成へ
あなたは、
すべての衝突で力比べをする必要はない。
本当に必要なのは——
環境と制度に、あなたの代わりに力を出させることだ。
「勢」が蓄えられ、
「節」が定まり、
「正」が安定し、
「奇」がその時を得たとき、
勝利は「創り出す」ものではなく、
自然に発生する結果となる。
The goal is not to force a win.
The goal is to make winning the natural outcome of your momentum.
技術と心の交差点を探求することは、時に孤独ではありますが、とても価値のある旅です。
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